私のふるさと

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私の中学時代(2)

私の中学は高台にあった その途中の洞穴(ほらあな)に、女のこじきが今でいうホームレスがすんでいた いつも缶詰のかんにキャベツ等拾ってきた野菜をいれて、ぐつぐつ煮て食べていた 私もいただいたことがあるが、いまでいう温野菜であろうが たいへんお...
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私の母と父です

昔は生きるのが必死だったと思う こたつにはいるといつも,うつらうつらして眠っていた 毎日つかれていたのだろう 本当に感謝がつきない、父母であった
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今日田舎の姉よりお米いただく

ありがたい、おいしいお米はなにより、働く力になる 農業は大変だ、やせた土地で格闘するときもある 田舎の姉は農業経験もなく、兄のもとに嫁いだ、つらい日々もあっただろう 今は4人の子供も独立させ、孫にもめぐまれた いつまでもお元気でと祈る
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故郷をあとにして

故郷をあとにして38年もう二倍近く東京で過ごしている-田舎での生活が蜜が濃かったのだろう。鮮明に覚えている景色がある-臨終の時一生を振り返った時故郷と父母、お世話になった人に感謝が尽きないだろう
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母の一生

1児の夫に嫁ぎ、農作業に休む暇なく、腰をかがめて働き続けた、一日たりとも休んだことはなかったと記憶する。その疲れからか、コタツにはいるとよく寝ていた 母は気丈な女性、もみがもったいないと手を伸ばし、コンバインにまきこまれ、ボルトをはずすまで...
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父の死で

父は69歳で交通事故でなくなった、私が23歳突然のことで、報を聞いたとき 呆然とした、2日間昏睡状態で最後の日、手を強く握ると、目から涙が 私が死んで会える日があれば、一緒に酒を酌み交わしたい
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ふるさとをあとにして

18歳にて自衛隊入隊のため、高田の町から 日豊線の宇佐(USA)駅よりお袋に送られる お袋は泣いていた 急行 高千穂 に乗り横須賀の武山へ 二年間の自衛隊生活の出発
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母もこのように

母もこのように腰をかがめて農作業していた もくもくと 愚痴こぼすことなく けなげにいききった 私は母の生き方を誇りにしている
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空を見上げると

そらを見上げると故郷に天空はつながっている 故郷にいなくても 故郷を忘れたことはない
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大分県豊後高田市

大分県豊後高田市、私が18歳まで育った故郷 この故郷に感謝がつきない 父は石積みの仕事と農業を、小学校時代、豚、ヤギ、馬、牛、犬、猫、うさぎなんでも 飼っていた、学校からかえり、動物たちと遊ぶのが一番のたのしみだった 母は市内の草地(くさぢ...